Dressing Them Up

タカラヅカが好きです

花組エリザベート3


貸切に潜り込んだのだけど、全国からバスで来られる初見のお客さんがほとんどだったせいなのか、開演前の空気やトート閣下の登場時すごく緊張感あるのがとても良かったです。
フィナーレで「わああー!」となる空気が全ツのようで妙に嬉しい…スターさんや大羽根へのどよめきとか劇場の空気がフワァっと変わるところすごく嬉しい…(何目線)


のぞみさんのルキーニは語り手、「信頼できない語り手」というのがしっくりくると思う。能弁なのに脇に立った時の傍観者の目が、皮肉でもなくて妙に静かで空虚でおそろしい。饒舌で陽気で、観客に近いところからずっと語り続けるけれど、最後に初めて「俺は」と一人称で語り出してはじめて、この語り手は狂人だった!と気がつく。そして全ては明らかにされないまま証言はぶつりと終わる。
ルキーニのシシィに対する執着心や愛憎が面白いと思う。世界のはみ出し者が寄せる共感、苛立ち、自己投影、憧憬、憎悪。ルキーニは史実では王侯なら誰でも良くて最初から彼女を狙ったわけではないみたいだけど、毎晩毎晩同じ供述をするうちに後付けで文脈が出来ていったルキーニというのでも面白い。この場合には「偉大なる愛だ」っていうのは後付けの動機になりうる。

蘭ちゃんのシシィは少女だ。シシィが少女である、ということが私のなかで今回のエリザ観の根底にある。
閉塞した現実から自分を連れ出してくれる異世界のひとや自己投影の対象として少女を求めた男たちは結局彼女を捕まえることはできない。
少女が自分の世界を守るために世界と戦い続ける物語だから、その世界の外側にいる、我々含めて誰も、彼女が何を愛したかなんてことを完全に理解することはできない。だからルキーニが「俺だけが知っていたエリザベートの愛の真実」ということはある種のハッタリだし、最後の証言でトートとフランツが争っても結局彼女の証言が無い限りは永遠に裁判が終わることはない。

あすみトートもまた少年の面影があるキャラクターなので、シシィとシンメトリーであることを強く感じる。
東京のあすみトートずいぶん人外っぽい雰囲気になったなあと思いつつ、ムラでみたときの初恋っぽい初対面とか「覚えておいでですか?」のちょっと嬉しそうな感じとかが恋しい…と思ってたんですが、今回観たら緩急つけて感情が生まれるようになってた。
死は逃げ場ではない、のところ、トート閣下爆発しすぎてちょっと泣いてる??!!って動揺しつつときめきました。
シシィがいちばん研ぎ澄まされて美しくなるのが死を意識したときで、そこに現れるのが彼女の鏡のように少年めいた姿であることでいろいろと腑に落ちる。
「まだ受け取れないその命を俺のこの愛を求めぬ限りは」というところで
シシィは死ぬことも狂うことも己に許せない。彼女が求めているのは生きて世界を愛して愛されることだから。でも生きたまま彼女の求める自由を手にするのは、不可能なことなのか、という問答と対になるんだと納得したんだけど
いまいち言語化できないですね。うーーーん